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  • 執筆者の写真らっこ(編集)

春のように



 私は車窓の方に顔を向けながら、流れていく長野の青い山々と真っ青な空を眺めていた。イヤフォンからきらきらと零れるトランペットの音色に聴き入りながら、窓に頭をもたせ掛ける。田の面が映す太陽の光は流れ星のように光っては流れ、空には飛行機雲がいくつか流れていた。横浜から長野に向かうときの、この車窓からの景色が私は好きだった。 

 毎年夏休みになると、私は長野の母親の実家に帰ることになっていた。夏休みの中の一週間だけ、普段暮らしている横浜の町を離れ、祖父母の暮らす田舎の家で過ごす。と言っても、小学校を卒業するまでは長野の同じ町に住んでいたから、私にとってそこは子供時代の記憶の詰まった懐かしい町だ。都会から離れ、その見慣れた山の稜線を見ていると、いつも自分に返れるようなほっとした気持ちになった。この夏もやはり、長野に帰ることになって、私は車の中で窓の外を眺めながら、次第に近付いてくる山の気配に心を浮き立たせていた。



 家の横に付けた車から降りてドアを閉めると、家の前には祖父母が迎えに出ていた。外は暑い。遙かに見える穂高の頂にはうっすらと雲が白くかかって、山頂はいかにも涼しそうだが、この麓の町では太陽が照り付ける猛暑である。

「早苗ちゃん、よく来たね。まあ、前より背も伸びたわ」

 突っ掛け草履で砂利道に立って、にこにことしながらお婆ちゃんが言う。私の背が伸びたのか、彼女が縮んだのか、彼女の身体は前よりも小さく見える。でもその懐かしい声は変わらず、私はようやく長野に戻ってきたのだと嬉しかった。

 気付けば、持っていた自分の荷物はいつの間にか彼女の手にある。私はお婆ちゃんに背中を押され、そのまま家の中へと促されていた。


 涼しい家の中に入ると、長野の家の懐かしい匂いがする。居間のテーブルには氷の入った麦茶とスイカを盛った大皿が並んで、淡い水色のテーブルクロスが扇風機の風にゆらゆらと揺れている。居間のテレビは付けっぱなしで、天気予報士が明日の長野の天気を伝えていた。私はほっと安心して、居間の隣の和室に寝転がり、朝からのドライブで固まった手脚を畳の上でぐっと伸ばす。

 両親もそれぞれの荷物やお土産を運び込み終わると、皆で居間の席に落ち着いた。すると毎年のように、私のことが一番の話題になる。

「早苗ちゃんもう高校一年生なの、早いものね」

「どう? 高校は、楽しい?」

「お勉強はできてるの? クラスで何番目かしら」

 と、祖父母の質問の嵐に遭った後、話はお父さんの仕事やお爺ちゃんの家庭菜園の話、お母さんの最近習い始めた英会話教室の話に移る。私は家族のたわいのない近況を聞く傍らでスイカを食べながら、長野のグルメがテレビで紹介されているのを見ていた。

「ね、早苗、どうする?」

「え?」

 振り向くと、お母さんが私に聞いている。

「だから、山下さん家に行くの。いつが良い?」

「ああ……」

 私は目を逸らしてテレビの方を見るふりをした。返す答えを探しながら、心の中では正直面倒臭い。

 お隣さんの山下さんと私の家族は、昔から仲が良かった。山下家にもちょうど私と同じ年頃の子供がいたこともあって、引っ越す前はお互いの家を行ったり来たり、家族ぐるみで付き合うような仲だった。山下家にいた男の子の名前は光太朗と言った。一つ年上の光太朗とは小学校も同じ幼馴染みで、昔は私も彼とはよくこの辺りを一緒に遊び回っていたのを覚えている。

 でもその光太朗は、私が中学校に上がって横浜に引っ越しした頃から、すっかり無口になった。夏休みごとに山下家を訪ねても、大抵ゲームをして遊んでいるか、むすっと黙って座っているかのどちらかで、私が話しかけても一言二言短い返事を返すだけ。めっきり言葉を交わすこともなくなった。大人たちはそんな彼を大して気にもしないで、尽きることなく延々と話し続けるので、私はその間無口な光太朗を前にすることになる。それで、山下家に行くと毎年どこかぎこちなく、手持ち無沙汰な思いをするのが私は苦手だった。

 今年は課題図書を持って行って読んでいようかと考えていると、お母さんが私の返事も待たない内から、

「まあ、早苗は予定もないから、いつでも良いわね。じゃあ幸恵さんには、明日って連絡しておくから」

「明日?」

 私の面倒臭そうなのが伝わったらしい。お母さんは私を見て、

「駄目なの?」

「ううん、別に。明日ね」

 急いで答えた。嫌なことは先に済ませた方が良いのだと、そう思いながら、私はテーブルを離れて畳の上に転がった。

 カーテンを開いた大きな窓からは、青い山の稜線と空が見える。私はにっこりと微笑んでいた。夕方になれば、持って来たトランペットを吹こう。この広い田畑の中で、一人空に向かって楽器を吹くのが、私は何よりも好きだった。楽器を吹けば、重たい気持ちもあっという間に消え飛ぶだろう。夕方が来るのを待ち切れないようにわくわくしながら、私はくるりと畳の上で寝返りを打った。



 翌日の午前中、家族三人で隣の山下家を訪ねると、予想外なことに光太朗は家にいないと言う。

「光太朗ね、ちょうどさっきバイトに行っちゃったのよ」

 小母さんが残念そうに言うのを聞いて、私は少し拍子抜けしたような、ほっと安心したような気持ちになっていた。

「早苗ちゃんたちが来るから、この数日は空けときなさいよ、って伝えてたのにね、バイト入れたって言うから、ごめんなさいね」

 となぜか私に向かって謝る小母さんに、私はかぶりを振って、

「いえ……」

 良かったです、と言いかけたのをやめて慌てて口をつぐむと、

「まあ光太朗はいないけど、三人ともゆっくりしてね」

 と小母さんはにこりとして、私たちを居間の方に案内した。


 光太朗のいない山下家はどこか落ち着いて、私はいつもより寛いだ気持ちで午前中を過ごしていた。課題図書の出番は、まだなさそうだ。ひとしきり親同士での会話が盛り上がった後、小母さんは私の方を向いて、

「早苗ちゃんももう高校生ね、高校はどう?」

「あっ、はい、楽しいです」

 出してもらったサイダーのストローから慌てて口を離して、答えた。

「きっと早苗ちゃんのことだから、勉強も優秀よね、小学校の頃からそうだったもの」

「いえ、そんな……」

「そういえば、この間のテストでもね。一番だったって」

 代わりに口を挟んだお母さんは私の方を振り向いて、

「この間のテストでね、あったじゃない。ほら、何の教科だっけ」

「国語だけど……一回だけだから。それに」

 たまたま得意教科なだけで、と私が付け加える暇もなく、お母さんはまた小母さんの方を向いて喋り出した。

「そうそう、国語。期末テストでね、一番だったって。昔から得意だったのよ」

「まあ本当。羨ましいわ」

 小母さんは大袈裟に驚いて見せると、

「うちの光太朗はいっつも遊んでばっかりなんだから。少しは早苗ちゃんを見習って欲しいわ」

 と昔からの口癖のように、悪気なく笑った。

 笑っている小母さんの傍らで、私はストローに口をつけて、サイダーを口に含ませた。こういうとき、光太朗がここにいると、彼は決まってむすっと黙り込んだまま、長い前髪の奥で目をふいと逸らし、少しだけ肩を竦めるのだ。いつも褒められる方の私はそんな光太朗を横目に見ながら、小母さんたちに愛想笑いを返し、やはり押し黙ったままの彼の方をまた見て、ぎこちなく座っている。何となく、私はそういう瞬間が苦手だった。が、今日はその光太朗がいない。

「まあ、もうお昼ね」

 小母さんはちらりと時計を見て、

「そろそろお父さんとお昼の準備して来るから、三人ともここでゆっくりしてて」

 そう言って立ち上がるのを、両親が私たちもと、結局一緒に台所に手伝いに入った。私も付いて行こうとすると、早苗ちゃんはここで待ってて、と小母さんから制されて、後には私一人が静かな居間に残っていた。私は鞄の中から課題図書になっていた夏目漱石の『こころ』を取り出して開いた。

 最初の二、三ページを読んだところで欠伸が出て、涙を拭っていると、思いがけず廊下から顔を出した小母さんが手招きして、私を呼んだ。

「早苗ちゃん、お願いがあるの」

 栞も挟まずに本を閉じて廊下に出ると、小母さんが申し訳なさそうに私を見て、

「光太朗が財布を忘れたって言うのよ。バイトの休み時間に取りに来るみたいだから、途中まで持って行ってあげてくれない? 今、お昼の準備でちょっとバタバタしちゃってて」

「あっはい、大丈夫ですよ」

「ありがとうね、本当に助かるわ。二階の光太朗の部屋、分かるでしょ?その机の上に青い財布があるからね、部屋から取って行ってくれるかな」

 私が頷くと、小母さんはぎゅっと両肩に手を置いて、

「後で光太朗にお礼させるから。勉強中にごめんなさいね。じゃあ、お願いね」

 そう言って、彼女はぱたぱたと台所の方へ戻って行った。


 私は戸惑いながら静かな階段を上って、久しぶりに山下家の二階に上がっていた。階段を上がってすぐ右手、光太朗の部屋の扉は閉まっていて、小学校の時に作った木のルームプレートが掛けられている。光太朗の部屋に入るのはいつぶりだろう。小学生のときには、何のためらいもなくここに遊びに来ては、二人で日暮れまで遊んでいた。でも中学に上がってからは、そんなことももう絶えてない。小母さんに頼まれて来ているだけなのに、なぜか私はどきどきとしながらドアノブに手を掛けて、扉を開いた。

 光太朗の暗い部屋に入ると、勉強机は真正面にあった。電気を付けるまでもない。私は教科書の上に青い財布が乱雑に置かれているのをすぐに見つけられた。財布を手に取って戻ろうと、机に近付いて行ったとき、私は暗闇の中で机上に一枚のCDが置かれていることに気付いた。

「カインド・オブ・ブルー……」

 私は読み上げてはっとして、すぐ隣の本棚を見ると、そこにもずらりと並んだCDの背表紙が、廊下の明かりを反射して光っていた。

「ワルツ・フォー・デビイ、モーニン……」

 どれも、ジャズの名盤だった。並んでいるアルバムのタイトルがもう少し見たくなって、本棚の前に身を屈めたとき、扉の前で足音が響いた。

「何やってんの」

 振り返ると部屋の入り口には、出掛けていたはずの光太朗が立っている。

「光太朗……」

 私は慌てて立ち上がった。

 何となく動揺を隠しながら、私はつかつかと彼の前まで来て、彼の胸に突き出すようにして財布を渡した。

「頼まれたの。小母さんに。取ってきて渡すようにって頼まれただけだから」

 光太朗は無言で財布を受け取ると、

「ありがとう」

 と短く呟いた。そのまま彼が部屋を立ち去ろうとしていたのを、私は呼び止めて、

「あの」 

 彼は振り返った。

「ジャズ、好きなの?」

 私はどきどきとしながら、光太朗の目を真っ直ぐに見ていた。



 一階の居間に降りると、豪勢な食事が食卓に用意されていた。料理上手な小母さんは、私たち一家が来るといつもご馳走を振る舞ってくれる。この日は彩り鮮やかなサラダと肉味噌のお素麺、生姜の炊き込みご飯に茄子のお味噌汁、唐揚げ、出汁巻き卵、野沢菜の浅漬けが用意され、その上小母さん手作りの紫蘇のジュースも加わって、食卓に乗り切らないほどの料理を皆で手分けして並べていた。

「早苗ちゃんさっきはありがとうね、結局光太朗が早く家に着いたみたいで」

「いえ、大丈夫ですよ」

「お昼買うのに財布も持っていかないでね、大丈夫かしらあの子」

 そう嘆息する小母さんに、私は微笑みかけて、ご飯を口に運んでいた。

 お昼ご飯も食べ終わってデザートも頂いて、山下家を去るというとき、私はここへ来る前とは打って変わって、どこか心を弾ませながら、にこやかに小母さんと小父さんに挨拶をした。


 夕方になって家に戻ると、何となく心が明るく浮き立っているが、自分でもなぜだか理由は分からない。私は縁側で楽器ケースからトランペットを取り出して、練習の準備をしながら、楽器の表面が夕日にきらきらと輝くのを眺めていた。

 私は中学のときから、ジャズが大好きになっていた。部活でジャズを演奏したときから、その変幻自在な魅力に夢中になった。ジャズでは特に、トランペットの登場頻度も多い。自分の勉強のためにも、と聴いていると、気付けばあっという間にその魅力に引き込まれていた。今ではもう、吹奏楽よりもジャズを聴いていることの方が多いかもしれない。

 今日、光太朗の部屋でジャズのCDが並んでいたのは、意外な発見だった。思わず嬉しくなって、気付けば声を掛けていた。偶然にも、彼も中学からジャズを聴き始めたと言う。彼の方は、楽器を演奏しているわけではなかった。それでも音楽は昔から好きで、色々聴き漁っているうちに、ジャズの良さに気付くようになったと、あの部屋で彼は私に話していた。

 それにしても、と私は考えていた。あの部屋で数分ほど話しただけだった。それでも、楽器を演奏していない彼の方が、私よりも音楽に詳しいように見えた。彼は普段どんな曲を聴いているのか。一番好きな演奏者は誰なのか。たった数分では、そんなことまで話すことはできなかった。彼にもう少し、話を聞いてみたかった。また彼に会う機会はないか、とそう考えていたそのとき、顔を上げると、私は田んぼ沿いの道を歩いてくる光太朗と目が合った。

「あ……」


 光太朗はバイト帰りだった。町から山下家に帰るには、この家の前の田んぼ沿いの一本道を通り過ぎる必要があった。彼ははここを通って、家に帰る途中だったのだ。

 光太朗と話す機会を待ちかねていた私は彼を見つけて、縁側を離れて一本道に出た。自分でも知らないうちに、勝手に身体が動いている。そうして私が一方的に話しかけると、彼は始終戸惑いながら時折こちらを見て、でもぼそりとぼそりと、少しずつ話し始めてくれた。

 好きな演奏者、好きな曲、ジャズを好きになったきっかけ。音楽が好きでよく聴いていた私よりも、光太朗の方がずっと詳しい。マイルス・デイヴィスが好きなこと、どうして彼の曲が好きなのか、少しずつ、でもしっかりとした落ち着いた口調で話す彼を、私は頷きながら、時間が経つのも忘れて聞き入っていた。

 道の真ん中に立ったまま二人で話し続けて、結局日が暮れかけたところで彼と別れた。手を振って、彼の後ろ姿を見送った後も、私はじっと道に立ったまま夕空の下に立っていた。光太朗が最初に通りかかったときには明るかった空も、気付かないうちに暮れて、空の低いところに小さな星が一つ二つ光っている。

 私はどきどきとしながら、これまでは考えられないことだ、と思った。こんなにきちんと光太朗と話したのは、いつぶりだろうか。彼とはもう話せないのだと、思っていた。子供の頃から時が経って、お互い成長して、もう関わることのない遠い存在になったのだと、そう思っていた。

 でも今日は彼を見かけて、私の身体は勝手に動いていた。今まで苦手だったことが嘘のように、光太朗と話したいと思う自分がいた。彼もこんなに音楽が好きだとは、思いもよらなかったのだ。私は光太朗のことを、少しも知らなかった。

 大して吹きもしないトランペットを持ったまま、落ち着き無く縁側に座ったり立ったりして、そうして夕食に呼ばれるまで、私は日が落ちた後の優しい空の色をじっと見つめていた。



 その次の日も、そのまた翌日も、光太朗はやはり同じ時間に田んぼ沿いの道を通って帰ってきた。それがいつの間にか楽しみになっていた私は、夕方から楽器を持って縁側に出て、トランペットを練習するのが日課になっている。それで時折家の前の道を何気なく確認して彼の姿を見つけると、私は楽器を持って駆け寄って、彼に話しかけるのだ。

 初めは怪訝そうに私を見ていた彼も、段々と打ち解けた様子を見せるようになり、三日目に光太朗を呼び止めたときには、ようやく彼の方から話してくれることも多くなった。

 その日、光太朗が私の持っていたトランペットをじっと見つめていたので、

「これはね、高校に受かったときに買ってもらったの」

 と、練習していた文化祭のフレーズをいくつか吹いてみせると、彼の表情が明るくなって笑うのを、私は内心驚きながら見ていた。そんな彼の屈託のない笑顔を見るのは、いつ以来か分からない。私は嬉しくなって、

「本当は文化祭の曲をやらないといけないんだけどね、でも最近、こっそり練習してる曲があって……」

 そう言ってトランペットを構えて、まだうまく吹きこなせない「サマータイム」をゆっくり吹き出した。光太朗はじっと聴き入っているが、私は緊張していて、いつもより息がうまく楽器に入っていかない。普段好きな曲を吹いていると、一瞬で終わるような気がしていたのに、今はその何倍も長かった。吹き終わってトランペットを下ろすと、私は彼がまだ何も言わないうちから、得意でもない曲を吹いたのが急に恥ずかしくなって、

「あの、まだ全然練習できてないの。だから、その……」

 と言い訳のように付け加えていると、彼はふと口を開いて、

「ううん、すごく良かった」

 と、そう言った。見ると、彼は私が手に持っていたトランペットを見つめながら、ふっと微笑んでいる。

「この曲、好きなんだよね」

 そう言った彼の言葉が耳にこだまして、そのとき私はじっと立ち尽くしたまま、まるで春風に吹かれたように、淡くて甘い優しい気持ちが、身体の中を爽やかに駆け抜けていくのを感じていた。


 その夜、家族三人で寝ている真っ暗な和室の片隅で、布団の中の私はイヤフォンで音楽を聴きながら、今日のこと、昨日のこと、彼に初めて話しかけた最初の日のことを思い出していた。

 今年まで、私は彼のことを少しも知らなかった。子供の頃の光太朗と、成長してからの無愛想な彼は、あまりにも違っていた。話しかけてもろくに返事もしないし、目を合わせることもない。彼はもう私と話すことが嫌になったのだと思い込んで、次第に私も彼に話しかけるのをやめるようになった。その長い前髪の奥で、彼がどんな顔をしていたのかも、私は思い出せないようになっていた。

 でも今日私の前には、演奏を聴いて微笑む光太朗がいた。引っ越しをしてから初めて、彼がどういう人なのか、どういう風に話すのか、子供のとき以来初めて分かり始めるようになった自分がいた。

 もしかしたら、と私は思った。成長して、お互いに背を向けていた間にも、光太朗と私は知らないうちに、同じ曲を聴くこともあったのかもしれない。一つの曲を聴いて、知らず知らずのうちに心が浮き立ったり、心が静かにふるえたり、それは私一人の体験ではなくて、彼のものでもあったのかもしれない。そう考えてみると、訳もなくひどく心が揺れ動いて、私は暗闇の中で寝返りを打った。笑い出したいのか、涙を流したいのか、それさえ分からないような、自分でも分からないような感情の渦の中で、私はじっと胸を押さえて、暗い天井を一人見つめていた。

 不意に私の耳の中で、聞き覚えのある澄んだピアノの音色が響く。かすかな星の瞬きのように、繊細なリズムが夜の静寂の中で輝き始める。イット・マイト・アズ・ウェル・ビー・スプリング、春の如く、春のように。それは私が好きな曲の一つだった。春のような淡く優しい音色で、でも艶があって、静かな喜びに満ちたその曲は、春のことを歌ったものではない。ピアノでアレンジされたこの曲には、本当は歌詞が付いていた。英語では覚えていなくても、確かこんな意味の歌詞だったのを覚えていた。


 嵐の中の柳のように、

 心が激しく揺れ動いています

 操り人形のように、

 少しのことが私をひどく動かします

 春に浮かされているのでしょうか、

 春でもないと言うのに?


 次第に、ベースとピアノは浮き立つような快いリズムに変わっていく。私はその心地良いリズムとピアノの澄んだ音色に包み込まれて、まどろみ始めていた。目を閉じると、私は夢の中で春の空の中にいる。麗らかな光が私を包み込んで、柔らかな風が吹いている。

 気付けば心は浮き立って、私はその空の中を踊るように舞っていた。雲よりも軽い今の身体なら、私はどこまででも舞って行けそうな気がした。彼は、今夜は何を聴いているだろう。明日は、彼と会えるだろうか。私の心のどこからか春風が吹き込む。すると、身体はより高く舞い上がって、私は喜びに満たされるのだ。春でもないと言うのに……。



 翌日、バイト帰りの光太朗は、今度は彼の方から立ち止まって私に声をかけてくれた。

 今日は少しだけ光太朗にトランペットを吹いてもらうことになって、私は自分の楽器を渡し、持ち方や息の吹き込み方を彼に教えていた。

 私が説明するのを彼はじっと頷きながら見ていただけなのに、実際に彼が楽器に一息吹き込むと、初めてとは思えないほどすっと伸びやかな音が空に鳴り響いた。私は嬉しくなってそのまま音階も教えると、最初は辿々しく吹いていたのが、十分も練習すると難なく吹きこなせるようになっている。その翌日にもまた彼に楽器を渡すと、彼は時間も忘れたように夢中で練習して、簡単な曲なら吹けるくらいに上達を見せていた。

 楽器を吹き始めた当初、一週間かかっても満足に音も鳴らせなかった私は心底驚いて、

「初めてなのに、すごいよ。光太朗、トランペット始めたら?」

 と思った通りにそう薦めると、

「そんな。俺にはそんな才能ないから」

 と、目を逸らして恥ずかしそうに楽器を突き出した彼を、私は不思議そうに見ていた。彼の鳴らした音を聞いて、どうしてもトランペットを続けて欲しくなった私は、彼の方を向いて、

「ねえ、光太朗の学校には吹奏楽部はないの?」

「あるよ」

「楽器、始めたら?」

「いや、でももう、二年だし」

「吹きたいって思ったことはなかったの?」

「まあ……」

 そう答えながら、光太朗は少し俯いて、私の持っているトランペットを眩しそうに見ている。

「でも俺、楽譜も読めないから」

 私は彼を見ていて、もどかしかった。彼のように真っ直ぐな音が出せたなら、少し練習すれば、ジャズだって何だって輝くような音で吹けるはずなのだ。私は彼が吹いている姿を容易に想像できたし、彼の吹く音を聞いてみたいと思った。

「楽譜は私が教えてあげるから。やりたいなら吹いた方が良いよ」

「でも楽器もないし」

「ほら、最近は手軽に楽器を借りて、習うこともできるんだよ。グループレッスンなら、レッスン代も安くなるし」

 そう説得していると、彼の心が少しだけ揺れ動いたようで、彼はじっと考え込んでいる。でもまた口を開いて、かぶりを振った。

「いや、いいよ」

「ええ、その方が絶対良いと思うんだけど」

「……」

 私は黙っている彼にくるりと背を向けて、独り言のように呟いていた。

「光太朗が漫画とかゲームで遊んでる時間で、いくらでも練習できるのに……」

 彼が私の方を黙って見るのを横目に、構わずに続けた。

「本当にもったいないよ。勉強だってそう。昔は何でも知ってて、私に何でも教えてくれたのに。頭も良いんだからさ、その時間を使えば勉強だって楽器だって、きっとあっという間に……」

 話す途中ではっとして振り向くと、彼は俯いて黙ったまま道に突っ立っている。

 そのとき私の頭の中に、光太朗の顔が浮かんだ。いつも小母さんたちに私と比べられているときの、あの顔だ。思えば小学校の高学年になって、勉強が難しくなった頃から、やんちゃだった光太朗は少しずつ口数が少なくなっていた。彼を責める小母さんたちを前にして、私にはいつも光太朗の気持ちが痛いくらいよく伝わっていた。それを分かっていながら、彼に同じことをしたのだと思った。

 謝ろうと口を開きかけて、そのまま閉じた。どう謝るべきか、言葉が見つからなかったのだ。沈んでいく夕日の光が眩しくて、影になった彼の表情は私にはよく見えない。

 そのときの光太朗は、私からずっと離れた遠い場所に立っているような気がした。子供以来初めて、ようやく近付いたと思った距離はまた元に戻って、もう私の声も届かないような気がしていた。

 俯く彼の前に立ったまま、私はただ楽器の冷たい管をぎゅっと握っていた。



 その翌日、彼は来なかった。その次の日も、同じだった。

 ちょうど土日だったから、単に彼のバイトがなかったのかもしれない。光太朗なら、謝ればすぐに許してくれるのではないかと思った。それでも、私は光太朗に連絡する手段もなかった。もちろん、すぐ隣の彼の家に行けば、いつでも会うことはできる。でもそんな勇気も出せなくて、最後に彼に会った日のことをぐるぐると思い出しながら、私は土曜も日曜も縁側でただ一人、夕暮れの中でトランペットを吹いていた。


 その翌日の月曜日、横浜に帰るときが来て、私たちは朝ご飯を食べてすぐ、車に三人分の荷物や貰った野菜を詰め込んで、祖父母に挨拶をしてから車に乗り込んだ。結局、あれきり光太朗に謝る機会もないまま、私は横浜に帰るのだ。私は動き出した車の中で振り返り、見送る二人に手を振って、そしてその奥、光太朗の家の方をぼんやりと見つめていた。


 この日の空もまた、晴れ渡っている。帰りの車の中で、私は行きと同じようにイヤフォンを耳にしながら、長野ののどかな田園風景を眺めていた。今度の文化祭で演奏する曲を選んで聴いていた。何となく気持ちを紛らわせたくて、吹奏楽の明るいマーチ曲を選んでいた。でもしばらく聴いても、楽譜通りのその真面目なリズムは右から左に流れるばかりで、いつものように心は明るくはならない。

 膝に置いていた携帯を開いて、私はおもむろに別の曲を選んでいた。「イット・マイト・アズ・ウェル・ビー・スプリング」という長い曲名が、携帯の画面に流れ始める。私は顔を上げて、車窓から見える青い山々を眺めた。


 夢中で夢の糸を紡ぎ出す蜘蛛のように、

 うっとりと心を奪われています

 ブランコに乗せられた赤児のように、

 くらくらと目がくらみそうです

 春を告げるクロッカスも、バラの蕾も、

 翼を広げた駒鳥だってまだ見ていないのに、

 深い物思いをしては、心は浮き立ち、

 まるで春が訪れたようです

 そう、私の周りには、春が訪れているのです

 田畑にも山にも、至るところに生き生きとした夏の光が満ちていた。限りなく青く、曇りのない清々しい空もやはり夏のものだ。でも私の周りにだけは、春が訪れているに違いなかった。彼に謝ることもできない。しばらくは会うこともできない。こんなに心が重くて憂鬱なのに、彼のことを思い出すと、それでも心のどこかが浮き立ってくるように、歌い出すように、言い知れない喜びが生まれている。私は自分でも分からない二つの気持ちに引き裂かれて、じっと口を引き結んでいた。

 青い田畑が窓の外を流れていく。見慣れた長野の景色が段々と遠ざかっていく中で、また春になれば良いと、私は思った。春になって、夏が来れば、来年はまた彼に会うことができるだろうか。会えば、彼に謝るのだ。そうすれば、また彼と話すことはできるだろうか。

 ピアノとベースの音色が甘く響いている。

 この曲のせいなのだと、思った。春でもないのに、心が引き裂かれるのはこの曲のせいなのだと、私はそっと窓にもたれて、目を瞑っていた。



 

執筆:A.K.

制作:Akaho.




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