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  • 執筆者の写真らっこ(編集)

星追う人



 耳を澄ますと、波音が聞こえている。いつの間にか、わたしは眠っていたのだ。海風が柔らかい波のように寄せて、しっとりと肌を濡らしている。見上げると、月も星もない夜空だった。

 故郷から離れて、もう幾日経つだろう。この黒い空では、方角を知る由もない。遙かな空を見遣りながら、遠いところまで来てしまったんだなと思うと、ふいに涙の滴が草の上へ零れた。


 親しい人も、恋しい人も、皆置いて来た。置いて、この遠い地へ一人で来ていた。故郷の田園風景は何度も夢見た。あの眠ったような春の空、山の匂い、光をまとった風の色、月下にも明るい菜の花畑。今ではもう、故郷を思い出すよすがは、この夜空の星と月しかなかった。しかしそれさえ、今夜は出ていない。


 草原は風に揺れ、さらさらと音を立てる。鼻をかすめる秋草の香の中で、わたしは泣いていた。故郷の空を思うと、一滴また一滴と、涙が闇の中を銀のように光って落ちる。滴は草葉に当たって砕けて、草むらの中に散っていった。

 すると、滴の散った辺り、足元でかすかな光が明滅し始めたのを、わたしは濡れた目でぼんやりと見ていた。涙の落ちるほどに光は増え、葉影を透いてそこかしこに点々と輝いている。それは海風の寄せるごとにふくらみ、縮み、蛍のように夜闇に浮かび、宙を彷徨い始めた。初めはおぼろげに、次第にはっきりと温かな輝きを見せて、気付けば一群の光が舞い上がって広い夜空を巡っている。

 見上げるといつの間にか、無数の星がきらきらと輝いて空一面にかかっていた。星影はさやかに、夜空は明るい。天は遙かまで澄みわたって、北斗七星も見える。秋の星座も見える。故郷へと連なる西の空を見遣ると、一際明るい星が瞬いている。その遠く向こうの空の下に、父や母の眠る小さな住処があるはずだった。


 わたしは海風の中に立っていた。草原に立ってまわりを巡る光の列を見ていると、その中のいくつかが集まって、塊になって宙に浮かんでいる。それは陽炎のように自在に姿を変え、風の中で揺れて蝶になったと思えば、次にはすらりと脚が伸びて一羽の鶴になる。光は互いに戯れるように集まっては離れ、次第におぼろげな人の形になり、横顔から細い手の指先までくっきりとした輪郭が与えられると、とうとう最後に恋しい人の姿が現れた。

 草原は星明かりでほのかに照らされて、銀色にそよいでいる。わたしは夢を見るように、草原の中を歩き出していた。夜空に現れた人の姿を追いかけるように、無数の光の環の中をゆっくりと歩いていた。

 幻影はちらちらと揺れながら、海に向かって流れていく。闇夜にぼうっと光る衣の裾を掴もうとすると、白い衣は雪のように闇に溶けて、指は淡く夜風をかすめている。長い髪は風の中に棚引いて、その顔は見えない。でも時折こちらを振り返る口元が微笑んでいるように見えて、その間だけわたしは、故郷の一面の菜の花畑の中に彼女と歩いているような気がしていた。


 草原は下り坂になり、やがて砂浜に変わり、目の前には縹渺とした海が広がっている。海の上に入っていこうとする幻影を、わたしは波の前で立ち止まって見ていた。水平線の上、西の空には白い星が輝いている。彼女もあそこへ戻っていくんだなとわたしは思った。わたしもまた、夜が来るごとに見つめていたのは、その星の向こうに見える空だった。

 ふと、海の上に立つ後ろ姿が振り返って、わたしを真っ直ぐに見ていた。そこで初めて海と陸、ほんの少しの距離を隔てて二人の目が合った。その澄んだ目に、星影が映って揺れる。

 わたしはその瞳の奥に、遠い昔の故郷の空と野原を見るような気がして、気付けば大きく足を踏み出していた。彼女に向かって手を伸ばすその一瞬だけ、わたしの手がその温かな肌に触れた確かな感触があった。もう離れることがないように、大きく開いた自分の手で、その手をしっかりと握りしめていた。今、確かな存在として、彼女はわたしの目の前にあった。彼女は確かにわたしの前にいるのだと、そのときわたしは、そう信じていた。


 が、踏み出した足に波が押し寄せると、くるぶしは冷たい海水に浸された。彼女の手を握ったはずの手は宙を掴み、幻影は泡のようにふっと消えて、夜空を巡っていた星の明かりも闇の中に沈んでいる。


 後には、元の黒い海と空だけが残った。

 潮風が頬をかすめ、引いては寄せる波が足元をさらっていく。わたしは閉じた目を濡らしながら、暗い海の中に立っていた。一人、広い海の中に立つわたしの耳には、やはり波音だけが響いていた。



 

執筆:A.K.

制作:クワバラ


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