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  • 執筆者の写真らっこ(編集)

夢は繋ぐ

更新日:2020年10月30日



 8月20日の暑い昼下がりのこと、私は汽車を美濃駅で降りて人の少ないバスに乗り換え、岐阜の山の中へと向かっていた。長良川に沿って北上し、小さな目印がぽつんと一つ立っただけの停留所で降車してバスを見送ると、後にはただ自分一人。そこは既に岐阜の奥深い山の中である。そこから蝉の鳴き声を背中に浴びるように、谷沿いをしばらく歩いていくと、木立の中に見えてくる古い一軒家があった。

 木立の中を通って家の前まで来ると、辺りは依然として静かで、玄関までの石畳の道を歩く私の靴音だけが響く。主のいない庭の草木は夏の太陽を浴びて、カーテンの閉まった大きな窓を覆い尽くすほどに生い茂っていた。玄関の前に立って鍵を差し、重い木の扉を開くと、埃っぽい古い家の匂いが鼻を打つ。子供のときから、何度も訪れたこの家。それは十年前に失踪して以来、行方の知れない私の伯父の家だった。



 伯父は物理の大学教授だった。母の兄妹の中では唯一結婚せず、この広い家に一人で住んでいた。平静から寡黙な人で、いつも親戚の集まりでも無口に座っていたが、兄妹の中でも母と仲が良かったこともあって、彼は幼い頃から私を可愛がってくれた。それに学校を休みがちだった私に対して、同情したり冷たい視線を向けたりする大人が多かった中、何かにつけて私のことを褒めてくれたのも彼だった。優しく、色んなことを教えてくれる聡明な伯父に会うのが楽しみで、何度も母にせがんでは、私は子供の頃からここに何度となく遊びに来た。

 しかしあるとき、私たち一家に祖母から連絡があった。毎月の祖母の便りに、彼からの返信が来なくなったと言う。伯父は元より筆まめな方ではない。それでも、返事は遅れても返す律儀な彼から半年も連絡が来ないのを心配して、祖母と私の家族で伯父の家に見に行くことになった。家に着いて呼び鈴を押しても伯父が出ることはなく、合い鍵を使って中に入ると、果たして彼の姿はなく、ただ忽然と姿を消してしまったのだ。

 部屋を探しても、手がかりはどこにも見つからなかった。郵便受けには祖母の手紙が九月分から溜まっていたので、姿を消したのはその前後かもしれない。熊に襲われたのか、川に流されたのかと、親戚はしきりに噂したが、小さい頃から伯父に可愛がられていた私は、彼が亡くなったとはとても思えなかった。祖母もまた、彼が不意にここに帰ってくるのではないかと、そう期待して何年も待っていたが、戦争が終わっても、ついに伯父が帰ってくることはなかった。

 それから、十年の年月が経っていた。当時十四歳だった私も今は二十四歳になり、今年で大学院を卒業しようとしている。来年の春からは東京の大学で医学科の博士課程に進むことになっていた。両親はそんな私を応援してくれていたが、私には分からなかった。私はただ、昔から好きだった絵を描いていたい気もした。でもそんな話は誰にもしたことがない。このまま進んでも良いのか、複雑な思いを抱いていたそんなときに、私は伯父の家の整理のために駆り出された。今年の春に祖母と母で相談をして、とうとうこの家も売りに出すことになったのだ。それで夏休みに入ったばかりの私は、伯父の荷物の整理を始めるため、山奥にあるこの家に一人で来ていた。



 家の中に入ると、そこは半年前に訪れたときと変わらない静けさに包まれていた。広い玄関の真正面には油絵の静物画が飾られていて、そのすぐ奥には重厚な応接間があるが、応接間と言っても名ばかりで、滅多に客人を迎えることのないその部屋は、私が泊まっていくときの寝所として使われるようになっていた。右手に進むと現れる広い空間には暖炉のある居間があり、伯父はよくその前の革のソファに座って煙草を吸っていた。今でも、暖炉の燃える匂いと煙草の煙の入り交じった匂いが何処からか漂ってくるような気がする。


 でもこの家の中でも一番好きだったのは、伯父の書斎だ。それは扉一枚隔てた居間の南側に面して、扉を開けると、三方の壁が殆どガラス扉の付いた本棚で埋め尽くされ、黒い背表紙に金文字の光る物理や宇宙の本、外国語の分厚い本がずらりと並ぶ。その間には舶来品の文具や置物を集めるのが好きだった伯父の趣味で、置き時計や天体模型などが置かれ、部屋は目も眩むばかりの煌びやかな意匠で埋め尽くされていた。唯一真正面には庭からの日光が差し込む大きな出窓が張り出して、その手前に伯父の黒い書斎机がある。大きな地球儀が鎮座するその机の上はほとんど伯父が家を出たときのまま、当時読んでいたであろう研究書や書きかけの原稿、万年筆が散らばっていた。子供の頃の私はこの書斎が好きだった。ここに入っては、宝探しのように部屋の中を見て回り、特に気に入った文具や置物を見つけて丹念に眺めるのだ。そして物理の本なんかの微細な挿絵を、分からないながらにうっとり眺めている私を見つけると、伯父は喜んで一つ一つの挿絵や図像の意味を、幼い私に丁寧に説明してくれるのだった。


 この美しい書斎に手を入れるのは躊躇われたが、ともかくももうこの家は売り払われるのだ。そう自分に言い聞かせて、私はガラスケースの一つを開き、最下段の列から本を取り出し始めた。外国語の辞書や伯父の研究資料、日本語の分厚い専門書を両手で本棚の外に次々と出していく。すると、本棚の底に一枚の紙切れが落ちていることに気付いた。身を屈めて手を伸ばし、拾い上げてみると、伯父の手跡で書かれた飛行船の設計図である。私はその紙の埃を払って、その端正な線を指先でそっとなぞりながら、伯父がよく私にしていた飛行船の話を思い出していた。

 それは決まって夕食の後である。暖炉の前で煙草を燻らせながら、彼は物語を語り聞かせるようにして、伯父がまだ子供だった頃に父親に連れられて見た飛行船の話をしてくれた。その頃は飛行船も、飛行機もまだ珍しかった頃だ。美しい紡錘形をした大きな飛行船が悠々と空に浮かび上がっていく姿を見て、あんなに大きなものが空を飛ぶのかと、幼い伯父には大きな驚きだった。また、部品一つ動かさずに空を飛ぶように見えたその姿、その造形の美しさは彼の心に深く刻みつけられて、彼はそれから、いつか自分だけの飛行船を作ることを夢に見るようになる。伯父は一心に勉強し、大学では物理学科に進み、一度は飛行船開発の研究に携わるようになった。が、あるとき様々な人の思惑の絡む陸軍主導の飛行船開発に嫌気が差すようになってからは、とうとう開発の現場からは退き、それ以後はただ一人で黙々と研究に打ち込むようになった。

 私はだから、伯父の失踪のことを考えては、彼の抱いていた飛行船の夢のことを思い出していた。彼が自分で飛行船を作って戦時の日本を離れ、遠い外国の地で暮らしているのではないかと、そんな空想を私はどこかで信じていた。それはもちろん、根拠のない空想だった。そんな計画は伯父から聞いたわけでもないし、第一彼が失踪してすぐにこの家を探し回ったときにも、失踪の理由を示すものは結局何一つ見つかっていない。でも当時、戦争の足音が近付くにつれて、伯父が段々と暗く、物憂い表情を見せるようになっていたのを私はよく感じ取っていた。彼の抱いていた戦争への嫌悪感と、飛行船の夢とは、私の頭の中で自然と一つに結びついた。そして伯父のことを思い出すたびに、私は半ば戯れのように、半ば真剣な思いで、それが彼の失踪の真相だったのではないかと、ぼんやり考えるようになっていた。

 私は胸のポケットから、懐中時計を一つ取り出した。それは最後に伯父に会ったときに、彼がくれた懐中時計である。中は空洞になっていて、そこには小さな鍵が一つ入っている。結局何の鍵か分からないまま伯父はいなくなってしまったが、私は今でもそれをお守りのように日夜身につけて、迷ったとき、自信をなくしたときに見返してみる。そして今でも彼が何処かで生きているのではないか、そう空想すると、私は一人ではないと、少しだけ自信をもらえるのだ。でももう、そんな空想には見切りをつけて、伯父の死を受け入れなければいけない頃かもしれなかった。


 片付けていると、窓の外で猫の鳴き声が一つ聞こえる。分厚いカーテンを開けて張り出し窓を覗いてみると、外はもう大分暗い。私はその中に、こちらをじっと見つめる三日月の姿を見つけていた。この辺りに棲みつく野良猫だった。伯父が餌をあげ始めた時分から、毎日のように姿を現すようになった。顔立ちの凜とした黒猫で、瞳は丸く翡翠のような艶があり、額に三日月状の白斑があったので、伯父が名前を付けた。初めはほんの子猫だったのが、今ではもう老いて足取りもゆったりとして、伯父がいなくなってからもこの辺りで主を待っているらしい。

 玄関に回って彼女を中に入れると、三日月は私が扉を閉じないうちからとことこと居間へ向かっていた。老齢の彼女はよく物にぶつかる。この日もソファ横にある映写機のカバーを引っかけて、天鵞絨がどさりと床に落ちた。私は三日月の後から居間に向かい、落ちたカバーを拾い上げようとして、久しぶりに見る映写機の硬質な輝きにどきりとした。最後に回してから長い年月が経って、錆びが多くなってはいても、金属の直線と曲線の描く揺るぎない美しさに変わりはない。

 私は何となくこの映写機をもう少し眺めていたくなって、一度手に取ったカバーをソファに寝かせ、そっとハンドルに手をかけていた。それは私が十歳になるというとき、日本でも珍しかったこの映写機を伯父が買ってきたものである。当時、準備をする伯父の周りを落ち着きなく跳ね回っていた私も、映写機が回り始めた瞬間にぴたっと静かになって、真っ暗な部屋の中で明滅する白黒の映像の鮮やかさにうっとりと見入っていた。そのときのことを、私は今でもよく思い出せる。今ではもうフィルムの写し方は伯父しか知らず、私にも分からなかった。それでも私は懐かしさに、その黒いハンドルをからりと一回転させていた。が、その瞬間三日月が伸び上がって、その瞳がきらりと輝いたのを私は気付かなかった。

 手慰みのように、もう一回転、一回転と続けているうちに、私はふと、部屋に何か変化が起こり始めていることに気付いた。初めは分からなかった。でもハンドルを回し続けているうちに、違和感はどんどん膨らんで、私はあるときはっと異変の正体に気付いた。  明るいのだ。ついさっき見たときには、外は確かに日が暮れて暗くなっていた。それなのに、まるで朝日のような光が背後から差し込んでいる。私は後ろを振り返ってみて、自分の目を疑った。


 カーテンを開けたままの書斎の張り出し窓からは、太陽の光が差し込んで、きらきらと光っている。窓を鬱蒼と覆っていたはずの暗い草木の影もない。私は立ち上がって、ゆっくりと書斎の張り出し窓の方に歩き出していた。窓の外を見ると、あんなに生い茂っていた庭の草木は、まるで伯父がいたときのように綺麗に手入れされて、夏の草花が色鮮やかに咲いていた。いつの間にか庭に出て遊んでいる三日月は小さな子猫の姿をして、老いの気配は微塵もない。 

 外から聞こえる幽かな物音に気付いて、私は窓を開けて外を覗いた。すると、木立の向こうの開けた場所に何か大きな影が見える。飛行船の白い船体である。私ははっと目を見張った。その船体の傍に見えたのは、懐かしい伯父の姿。私は気付くと窓から身体を乗り出していた。冷たい朝風を身体に受けながら、木立の向こうまで走り出していた。

 木立を抜けると、紡錘形の美しい飛行船が私のすぐ目の前にあった。伯父は朝日に照らされながら、飛行船に乗り込もうとしている。私は伯父に目一杯の声を振り絞る。すると、伯父は振り向いた。昔と何一つ変わらない懐かしい姿で私の方に目を向けて、にっこりと笑い、そのふくよかな右手を差し出した。そして私は我知らず、その手を取って、飛行船の中に乗り込んでいた。

 彼が操縦を始めると、飛行船はゆっくりと地面を離れ、少しずつ高度を上げながら、空に向かって舞い上がる。私は窓から外を覗いた。

今しがた出てきたばかりの伯父の家が、段々と遠ざかって、小さくなっていく。そしてその影もついに見つけられなくなると、眼下に岐阜の深い山々が広がった。遙かを見渡せば、そこは飛騨や木曽の壮麗な山脈群である。山頂に頂いた真っ白な雪が、太陽の光を受けてきらきらと輝くその景色は、夢の中にいるように美しい。

 その上には、真っ青な空がどこまでも広がっている。私は空の青さをじっと見つめながら、目を瞑ればその中に溶けてしまいそうな気がした。この身体が、空を飛び回っていくような気がした。私の身体が伯父の家を離れる。岐阜も離れる。日本だって離れられるだろう。自分と伯父の身体は飛行船そのものである。行こうと思えば、私たちはどこへでも自由に飛んでいけるのだ。

 そんな一つの確信が自分の心の中を満たしたとき、遠くから鐘の音が鳴り響いてくるのが聞こえた。



 鐘が鳴り響く。遠くに響いていたその音は、段々と近付き、大きくなり、すぐ耳元にまで迫ったとき、私ははっと目を覚ました。

 そこにはもう飛行船も青空もなかった。元の伯父の部屋の中である。身を起こした私の耳の奥には、居間の柱時計の鐘の残響がまだ残っている。見回してみると、辺りはもう暗い。窓にはやはり、雑然と生い茂った草木の影が見えた。私は映写機のハンドルに手をかけながら、ソファで眠り込んでいたのである。

 私は今もどきどきとする胸に両手を当てながら、じっと考えていた。夢だったのだ、でもそうだろうか? 飛行船が空に舞い上がるときの胸の高鳴りや、自由を得た確かな喜びは、今も私の胸に残っていた。

 いつの間にか、小雨が降り始めている。私は何かを期待して書斎の張り出し窓の外を覗いたが、暗い木立の中に細い雨が降るばかりで、何も動く気配はなかった。

 夢に違いない。それでも私は、夢の中で確かな手応えのようなものを感じていた。あのとき見た景色、あの青く広い空は、確かにここにある。飛行船に乗って、見ようと思えば、いつでも見られるのだ。どこへでも自由に行けるのだという、その確信は本物ではなかったか。ふと、あの夢は伯父が私に見せたメッセージではないかと、そんな考えが私の中に閃いた。私は気付けばソファから飛び起きて書斎に入り、突き動かされるままに書類の山の中をひたすらに探り始めていた。


 膨大の量の本や書類の中を行ったり来たり、腕も疲れて痛くなるくらいに本棚の本を漁り回った。が、随分昔に描かれた飛行船の設計図やたわいのない備忘録が出てくるばかりで、伯父の失踪の証拠を示す肝心な手掛かりは何一つ出てこない。さっきまで小降りだった雨は本降りになって、雨が屋根を叩きつける激しい音が静かな書斎の中に響いている。それでも何かがあるはずなのだと、私は思っていた。

 本棚から取り出した本や書類が山積みにされて、伯父の書斎机が狭くなってきていた。机上の地球儀を動かそうと、一抱えもあるそれを私が持ち上げたそのとき、ぴかっと稲光が閃いた。一瞬真っ白になった部屋の中で、不意を突かれた私の手は緩んで、地球儀が滑り始める。あっと握り直した手は空を掴んで、地球儀は宙に離れた。みるみるうちに地球儀は落下し、最後に激しい雷鳴が部屋中にドーンと轟いたときにはもう、ぱっくりと二つに割れて床に転がっている。

 窓に激しい雨が打ち付けている。私は急いで床に膝をつき、恐る恐る地球儀を手に取った。何のことはない。割れたと思った地球儀は、もともと金具で二つに開くようになっていたのだ。支えの金具が本体を守って、表面には傷一つ付いていない。地球儀の中に収められていたのか、辺りには小豆ほどの大きさのネジがころころと散らばっている。たくさん散らばったネジを一つ一つ拾い集めて、机の下に身を屈めようとしたとき、私は暗がりの中にきらりと輝くものを見つけて手を止めた。

 手を伸ばすと、それは四隅に美しい紅い宝石飾りの付いた木箱である。落としたときには気付かなかったが、地球儀の中にはネジとともにこの木箱も入っていたのだ。それが、落としたはずみに机の下に転がったらしい。私は木箱を両手で挟み込んだ。そしてぐっと開けようとして、戸惑った。もう一度力を入れてみても、同じだった。何度か試してみても、木箱が開かないのだ。見ると、箱には鍵穴が付いている。私は首を捻りながら、しばらく鍵穴を見つめていた。どこかで、見たことがある。この菱形のような、独特な鍵穴の形に見覚えがあった。形を覚えるほど見慣れた鍵の数はそう多くない。この家の鍵か、私の家の鍵か、もしくは―。

 そう考えたところで、私ははっと胸元を押さえた。そして首にかけていた懐中時計を握りしめて、そっと中を開いた。中に入っていたのは、この木箱と同じ菱形をした小さな鍵である。私は息を呑みながら、鍵穴の中に鍵を差し込むと、予想通り鍵はするりと中まで通って、カチャン、と鍵の開く音が小さく響いた。


 木箱の中には、伯父の古い日記帳や備忘録、地図の束が入っていた。雑記帳にはどのページにも万年筆の滲んだインクの線でが走らせてあって、計算式で埋め尽くされているページもあれば、幾何学模様のような飛行船の図面を丁寧に描き込んでいるページもある。見ると、日記帳にはちょうど彼が失踪する前の日付にも書き込みがあった。紙もインクも劣化して薄れてはいるが、まだ十分に筆跡が辿れる。雷鳴がまた一つ、窓の外で鳴り響いた。私ははやる心を抑えながら、日記帳の最初の方を開き、一ページ目の文字を辿ってはっと息を止めた。


 「1939年9月3日。独軍に対して英仏が宣戦布告し、欧州で新たな戦争が起こる。これまで集めていた資材や設計図をもとにして、今日から計画に着手する」


 計画とは何か、書かれてはいない。でも私は直感的に、飛行船の計画なのだと分かった。伯父の失踪の謎はすべてここに託されていたのだ。私だけが鍵を持つ、この木箱の中に。このページを始めとして、それからほぼ毎日、計画の進捗状況が逐一簡潔に記されている。


 「1939年9月5日。裏山の小屋に集めた資材を確認した。足りない部材もあるが、このまま始めるより他ない」「1940年9月27日。日独伊の三国による同盟が締結される。本土でも戦争の始まるときは近いのかもしれない。急がねば」「1940年12月21日。あともう少しというところで、飛行船が動かない。原因の究明に当たっている」


 私は我を忘れて、その分厚い日記帳のページを夢中でめくり続ける。そしてとうとう、日記帳への最後の書き込みに突き当たった。


 「1941年8月19日。明日、出発の日を迎える。軍に見つからないよう、殆どの資料は焼却した。ただ唯一、木箱の鍵を甥に託して……。いつの日か彼が大きくなったとき、この手帳を見つけてくれるように。夢は叶うことを伝えるために。行こうと思えば、私たちはどこへでも行けるのだと、そう彼に伝えるために」


 それが日記帳の最後だった。雨風は蜷局を巻いて、高く低く唸りながら吹き荒んでいる。私は日記帳を閉じると、最後のページに挟まれていた地図を見つけた。開いて見ると、戦前に陸軍の作成していた古い地図である。地図には日付と、航路が赤いインクで書き込まれていた。地図によると8月20日に日本を出発して、太平洋を渡り、最後にはアメリカに着いていることになっていた。

 しかし、地図には復路も書き込まれていた。アメリカから出発するその復路をなぞると、それはまた太平洋を通り、同じこの岐阜に戻ってくることになっている。その到着日を人差し指で差しながら、私は呟いていた。


「1951年8月20日・・・」


 読み上げてみて、私は息を呑んだ。それはまさに、今日の日付ではないか?

 どきどきと激しく脈打つ心臓を押さえながら、私は地図を片手に握りしめて書斎の床に座り込んでいた。

 ざあざあと、雨風の音が響いている。

 その轟音の中でふと、遠くに何か別の風音が幽かに聞こえてくる気がした。私は伸び上がってじっと目の前の本棚を見つめ、その幽かな音に耳を澄ませた。木々が風に鳴る音、雷鳴の轟き、そういった色んな物音の中から徐々に輪郭を現して、何かの迫り来る震動音があった。それはつい最近聞いたことのあるような、聞き覚えのある音である。私ははらはらと考えを巡らせ、次の瞬間、一筋の稲妻が差したように思い当たって、あっと声を上げていた。

 響いていた振動音はそのとき止んで、しばらくあってから、ガチャリと玄関で音がした。

 扉が開いて、外の嵐の音が静かな家の中に響き渡る。カツ、カツ、と靴音が一つ二つ響いて、ぽたりぽたりと全身から雨の滴の落ちる音があった。居間のソファで丸くなっていた三日月はぴんと耳を立てソファを飛び降りると、甘えるように鳴きながら玄関に走り寄る。

 三日月の声がしきりに鳴く。すると靴音はもう一つカツ、と響いて、

「ただいま」

 と懐かしい伯父の声がした。





 

執筆:A.K.

制作:コシムラ

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