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  • 執筆者の写真らっこ(編集)

雪解け



子供の頃、大人になりたいと思ったことはあっただろうか。いざ大人になってみると、子どものあの無邪気さも、学校帰りの泥臭さも、ぜんぶ愛しく思えてくるものだ。ランドセルを背負って駆け回る小学生や、単語帳を手に持って電車に乗っている高校生がなんだか目につくようになってしまった。そして大人になってみて、自分の立場だけ変わってしまって、全く中身なんて変わってないことに気付かされる。けれど、そんなこと子供の時の僕はこれっぽっちも知らなかったから、大人になりたいと思うことは沢山あった。欲しいものが買えなかったとき、理不尽に怒られたとき。そしてそれから、大人に憧れたときに。


 あれは僕が高校三年生の、センター試験を控えた冬のことだった。

 僕は集団塾に通っていたのだが、いつも学校が終わって塾の授業が始まるまでに時間があったから、そこを自習に当てていた。塾には自習室もあったけれど、友達同士だと気が緩むのか、周りも少しうるさかったし、自分もあまり捗らないしで、塾の近くの小洒落たカフェで勉強をしていた。はじめて一人で、しかも学生服に身を包んでそのカフェに入るのは少しだけ勇気がいた。けれど慣れていくうちに、そこのマスターと会話を交わすようになって、受験生だと言うことを告げると、毎日一杯コーヒーをおかわりさせてくれた。平日の夕方ばかり通っていたからか、あまり他に人はいなくて、僕にとって居心地のいい場所だった。

 しかししばらくすると、僕がお店に来た少し後に、一人のお客さんが来店するようになった。最初はあまり気にしていなかったけれど、そのひとはいつも、僕の二つ横の席の、日の当たる席に座っていた。

 綺麗な女の人だった。身長は小柄だった僕より少し高いくらい。一度お会計をしている時にその人がお店に来たから、なんとなく分かっていた。けれど高いヒールを履いていたから、本当は僕と同じくらいか、それより小さかったかもしれない。確かめる術はないけれど。その人は決まってエスプレッソを頼んでいた。それだけで大人に見えて、僕はその人がいないときにこっそりエスプレッソを頼んでみたけれど、苦くて飲みきれなかった。マスターは「大人の味だったね」と笑って、結局ミルクとお砂糖を入れてくれた。 

 彼女はそうしてエスプレッソを飲みながら、文庫本を読んでいた。

 僕はその人が来るようになってから、そのカフェに行くのが少しだけ楽しみになった。彼女はそこにいるべき人だったからだ。彼女がそこで本を読んでいるだけで絵になったし、多感な少年だった僕はたまにじっと見つめて我にかえることもあった。

 一度だけ、その人と会話したことがあった。その日は珍しくお客さんが多くて、いつも一つ席を挟んで隣だったその人が、僕の隣の席に座った。僕は少し緊張しながらも参考書を見続けていると、マスターが僕の方にコーヒーを持ってきてくれたタイミングで、その人が手元の本から顔を上げてこちらを見てにっこり笑った。僕はどぎまぎしてしまって、ぎこちない会釈を返した、気がする。

その人はゆったりした声で、「受験生?」とだけ聞いてきた。僕がはい、と返すと、「いつも偉いね」とその人は言った。

「そんなこと……」

「いつも私がここに来る前から勉強しているでしょう。だから偉いなと思ってたの。頑張ってね」

 再びはい、と答える頃には口の中がぱさぱさに乾いていた。その人はまた本に向き直ったから、僕も手元の参考書に向き直って、マスターが持ってきてくれたコーヒーをすすった。なんだか普段より苦く感じたのを覚えている。


 それからしばらく顔を合わせていたけれど、会話をすることはなかった。

 僕はといえば、受験が近づくと、学校も自由登校になってしまって、毎日塾に入り浸っていたから、カフェに行く目的がなくなってしまって、あまり行かなくなってしまっていた。

 しかし試験がひと段落した後、僕はまたそのカフェに来ていた。ほぼ毎日行っていたので、マスターにお礼のひとつでも行っておこうと思ったのが一つと、あわよくばまたあの人に会いたいと思ったのが一つだった。けれど、通っていた時と大体同じ時間に行ったはずが、その人はいなかった。そわそわしていると、マスターはそれに気づいたのか、「あの女の人のことかい」と聞いてきた。

「今日は来てないのかなと思って……」

「ああ、それがね、引っ越しちゃったんだよ。この前わざわざご挨拶にきてくださって」

「あ……」

 僕は言葉を迷って、結局「そうなんですか」とだけ呟いた。

 僕はその日、またエスプレッソを頼んだ。結局飲めなくて、またミルクと砂糖を入れてもらったけれど。


 今の僕は出されたエスプレッソを全部飲めるようになった。確かに大人になったら飲めるようになったから、大人の味なのかもしれない。でもだからといって、何か変わったわけでもなかった。その黒い液体は、大人になっても、ちっとも美味しくなんてなかったから。



 

執筆:らっこ

制作:Seika

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