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  • 執筆者の写真らっこ(編集)

朱鷲

 島には二つの山と、清水の湧き出る三つの泉がありました。  山の一つは、頂上まで往復しても半時間もかからないような小さなもので、私たちが普段生活のための水を汲んでいたのもこの山の泉です。私も子供の頃はよくここへ水を汲みに来ましたが、その湧き水の冷たく、きらきらと透き通って美しいこと。木漏れ日が泉の底まで差し込むのが見える透明さで、手のひらに掬うと、指の隙間から零れ落ちる一滴一滴が水晶の粒のように見えたのを覚えています。雨の少ない島に貴重な水をもたらしていることもあって、それは私たち村人にとって一際美しく、神聖なものだったのです。  島にはもう一つ、山がありました。森が深く、野生の動物も多いこちらの山には、普段村人が立ち入ることはありません。この山には獣や悪霊がたくさん棲んで、一度奥まで入ると生きては帰れないのだと恐れられていたのです。島の子供は皆残らず、山に入れば魑魅魍魎に取って食われるのだと脅かされて、どんなに遊び盛りで腕白な子でも、この山に入ることはありません。実際、たまに山の入り口を通りかかることがあると、何となく足早に通り過ぎたくなるような、異様な雰囲気が山影から漂ってくるのです。  それでも麓にある泉は比較的近いので、たまに日照りが続くと、こちらの山に水を汲みに行くこともありました。そのときには必ず大人も付き添って、複数で連れ立って行くことになっています。私もそうして山に入ったことがありますが、鬱蒼と生い茂った森の中を光の入らない獣道が続いて、夏の真昼だと言うのに、何処からかじっとりとした冷気がうなじ辺りに吹き付ける。それで時折背後でガサガサ、と何かの動く気配がするでしょう。幼い私は恐ろしさに、前も後ろも横も見ないで、ただ息を殺して足下を見つめて歩いたのを覚えています。それでも、やっとの思いで着いた泉は、それまでの怖さも忘れて、うっとりと見入ってしまうような美しさでした。私たちの普段使っていた泉のような、明るく澄み渡った水の美しさとはまた違う。ほんのり翠がかった乳白色の泉水で、森の空気が蜃気楼のように立ち上る幻想的な美しさだったのです。  当時村人がかろうじて見ることができたのは、こちらの麓にある泉だけ。島の三つめの泉、この山の奥にある泉は殆どの者が見たことがありません。ただ、ある時大胆にもこの山に狩猟に入った猟師がいた、という話を聞いたことがあります。彼は確かに木に目印を付けながら進んで来たはずだったのに、帰る段になってそれが何処にも見当たらない。帰り道を探す間に途中で地鳴りのような獣の唸り声がしたので、銃を向けて撃つのですが、黒い影が茂みの間で動くばかりで弾は一向に当たりません。猟師は恐ろしさにその場を逃げ出すと、麓に降りるはずが、無我夢中に山の奥へ奥へと迷い込んでいたようで、そのときこの泉に突き当たった。それはどの泉よりもずっと色の濃い、目の覚めるような鮮やかな翠色をしていて、しかも光の差し込む加減なのか、泉の面が鬱蒼とした暗い森のの中でぼうっと妖しく光り、この世のものとは思えない美しさだったと、彼は後から語ったそうです。猟師が山に入ってからもう半日。水筒も空になって、喉もカラカラに渇き切っていたところへこの泉を見つけて、彼は飛びつくように水を手に掬いました。浸した手が滑らかな絹に包まれるような、柔らかい冷たい水で、彼はもう貪るようにしてがぶがぶと飲みました。  喉を潤して気力を取り戻した彼は、日頃から身につけていた小さな木彫仏に祈りながら、暗い山道を五里霧中で辿ると、ついには無事に村に帰ってくることができたそうです。ですが村に帰ってきた彼は、この話だけを伝え残して、数日と経たずに病を患い、呆気なく亡くなってしまったのです。村人たちは、彼が飲んだ泉の水の中に毒が入っていたのだとか、悪霊に取り憑かれて生気を吸い取られてしまったのだとか、口々に噂しましたが、未だに真相は分かりません。この猟師のように、山から帰ってきて重い病に伏せってしまった者や、山に入ったきりついに行方不明になってしまった者は他に何人もいました。



 私がその日その例の山に入ったのは、迷い込んだわけでも、血迷ったわけでもありません。それはちょうど、私が村の中学校三年生になって、進路を考えるというとき。当時この村には中学までしかなく、大抵の同級生は中学卒業してから島を出て、寮に入って本土の高校に通うことになっていました。でも私は、どうしてもこの島に残りたかった。この島に残って、漁師の父を手伝いたいと思っていたのです。  この島の海を見れば、すぐに分かります。この島の海がどんなに真っ青に透き通っているか、海面が揺らめくたびに、太陽の光を通して海水がどんなにきらきらと輝くか。海だけではない、遮るものも何もないこの島の広い青空や、浜辺いっぱいに香る懐かしい磯の匂い、夕暮れの渚に立つ私を包み込むような柔らかな島風。早朝日の出る前に起きて父の漁を手伝い、朝にも昼にも海を見て、空を見て、ただそれだけが私の知っていた世界の全てで、他には何もいらなかったのです。でも長年その身に鞭を打って漁師の辛さを知る両親は、私に島を出て高校に入って、ゆくゆくは安定した会社勤めをして欲しいと思っていた。私が島に残ることをどうしても許してくれなかったのです。  ちょうどその日は高校の見学会があり、進学する者は朝から船に乗って、これから自分の進む高校がどんなところなのか、皆で見てくることになっていました。両親も当然、この見学会に私を行かせようとします。でも私はどうしても行きたくなかった。行ってしまえば、綺麗な校舎や同世代の生徒たちの活気を目の当たりにして、これから始まるかもしれない高校生活への予感に胸が高鳴って、島を離れたくなる気持ちが少しは芽生えてしまうかもしれないのです。私にはそれが怖かった。でもそうやって、当の本人が行かないと言い張っても、両親の方では着々と見学の申し込みや当日の準備を進めています。当日になって家にいれば、言い含められて、無理矢理にでも連れて行かれるに違いないのです。この日をやり過ごせば良いのだと考えて、私はこの半日だけどこかで身を隠していることにしました。とは言いながら、身を隠すには狭すぎるこの村。村人の行動範囲の中にいては、すぐに知り合いに見つけられて、両親に報告されてしまうのが目に見えています。そこで私が隠れ場所に選んだのが、あの例の山の中でした。  山の中と言っても、山の奥まで入り込むつもりは全然ありません。余程のことがなければ麓にも誰も入ってはこないですから、せいぜい麓の泉まで行って、そこでぼんやりと本を読んで過ごしていようと考えていました。それにもう自分では、あの山にも入っていけるくらい大人になった気でいたのです。あそこが怖かったのは昔のこと。今ではもう力も付いて、父親の漁の手伝いだって一人前くらいにできます。病を患った猟師の話も、迷信かもしれない。仮に迷信でなくとも、奥へは入らずに麓で大人しく座っているだけなら、山の神や獣たちを怒らせる理由にはならないだろう、麓の泉くらいまでなら、平気で一人で入って行けると、そう思っていたのです。


 当日、私は家族が誰も起きないうちにこっそりと家を出て、あの森に向かいました。念のため、祖母から貰った小さなお守りも鞄に硬く結びました。家を出たとき、辺りはまだ朝日の出ない薄暗い闇の中。あのおどろおどろしい森の前に立ってみると、やはり何歳になっても足が竦むものです。それでもそのときは、自分の将来がかかっていますから、私は意を決してその小暗い道を辿り始めました。何度か両親と水を汲みに行ったことはあったので、道は分かっているつもりでした。でもどこでどう間違えたのか、一向にその泉に着く気配はありません。これまでの感覚では、もうとっくに泉に着いても良い頃なのです。もっと言えば、いつもなら泉に着いて水を汲み、もう村に帰っている頃かもしれない。でも今、右を見ても、左を見ても、同じような黒々とした木立が目の前に広がるばかりで、どちらが山麓なのか山頂なのか、見当が付きません。私はどうやらいつの間にか、麓の泉に至る道ではなく、山の奥に入る道を進んでいたようです。もう太陽も空高くに上がって、お昼の眩しい島の光が差し込んできても良い頃なのに、この森の中では鬱蒼と茂った木立に頭上を覆われて、いつまで経っても夜の静寂に包まれているようでした。  暗い森をいくつも抜けたように思いました。森に入って一体何時間経ったのか、分からなくなるほど延々と歩き続け、やっとの思いで最後の森を抜けたとき、私の目の前に開けていたのは、はっと息を呑むような、見たこともないような美しい泉でした。それは、あの猟師が語っていた幻の泉に違いありません。翠色の泉水は宝石を砕いて溶かしたように濃く鮮やかで、そこに何処からか一筋の白い光が入って、水面から濛々と白煙が立ち上っているようにも見えます。泉の周りには色んな種類の草木が高く低く生い茂って、耳を澄ませると虫の音や枝葉の擦れる幽かな音、遠くの方では時折鳥か獣の遙かな鳴き声が響いていました。疲れているのかこの泉の妖気なのか、私はしばらくその美しさにただ呆然と見惚れて立ち尽くしていたのです。  波風一つ立たない静かな水面の前に座って泉の水に手を浸すと、絹糸のような滑らかさ。水筒の水もなくなって、喉も干涸らびるばかりに渇いていましたが、猟師の話を思い出して逡巡していたところ、一羽の美しい朱鷺がどこからともなく向かいに現れて、泉の水を飲んでいるのが見えました。時折広げる羽の内側はほんのりと淡い桃色に輝き、凜とした長い嘴を伸ばして、くっくっと水を飲んでいます。この森に棲む鳥が飲んで平気なら、人間が飲んでも良かろうと、私は腹をくくって、その宝石のような色の水を口に含むと、ほんのり甘くて、とろとろと柔らかい。今までの疲れもすっと消えて、かえって命が延びていくような気がしました。  ですが泉の水を夢中で飲んでいると、どこかから低い獣の唸り声が聞こえてきます。向かいにいた朱鷺は屹と面を上げると、鋭い眼で私の背後を見据えて、ばたばたと木立の中に逃げていきました。振り返ると、木陰の奥に、虎のような熊のような、獣の黒い影が草を揺らしながらこちらにゆっくりと向かっているのです。手元には銃も何もない、急いで手探りしても、地面には小粒ほどの石や棒きれしか見当たりません。獣の漏らす低い息の生温かさが身体にかかるようで、私は泉のほとりに座り込んだまま、後ずさりをしてごくりと唾を呑み込みました。  真っ暗な藪の中の黄色い眼がきらりと光った、と思った次の瞬間、中から大きな影が飛び出しました。私はぎゅっと目を瞑って、どうにでもなれと、地面を強く蹴って身を泉の中に投げ出していた。どぼんと、身体の重みで頭の先まで泉の中に浸かっていくと、ひんやり冷たい泉の水が鼻にも耳の中にも入っていきます。予想外にも、かなりの深さがあったようで、泳ぎが得意だった私が一生懸命水を掻き分けても、みるみるうちに泉の底へ底へと沈んでいきました。虎か熊か、獣が水の中に入ってくる気配はありません。確かに獣には襲われずに済みましたが、今度は水面に浮き上がるまでに息が持ちそうにありません。かろうじて眼を開けて水面の方を見上げると、私はこんなときにもなって、水中から見た泉の中はなお幻想的だと思いました。この美しい島で死ぬのなら本望だと、目を閉じた視界の端に、先程泉のほとりで見た朱鷺の姿が幻のように揺れ動いていました。遠のいていく意識の中で、何か柔らかくて温かいものに包まれていくような感覚があった。それが泉の中で覚えていることの最後です。


 目を覚ますと、私はもとの泉のほとりで仰向けになって寝ていました。肩にかけていた鞄もきちんとあります。夢を見ていたのかと思いましたが、服はびしょ濡れになって、息を吸おうとした途端に喉に溜まった水で咳き込みました。確かに私はここで溺れたに違いないのです。見ると隣には私とちょうど同じ年頃の、見たことのない女の子が座っていて、起き上がろうとした私に声をかけました。彼女が溺れていた私を見つけて助けてくれたんだと言います。その少女の名前は、妙と言いました。  妙は目鼻立ちから手脚、手指に至るまで、作りの華奢な、黒髪の美しい女の子でした。泳ぎの上手だった私でも溺れたこの泉、とてもこの彼女の小さな身体で助けられたとは思えません。それでも辺りには他に人影は見当たらず、彼女が助けてくれたのでなければ、どうして助かったのか説明がつきませんでした。  妙はまた、同じ島育ちとは思えないほど、雪のような真っ白な肌をしていました。彼女が濡れた服を手で絞るとき、上衣を胸の辺りまで捲り上げると、その白い腹部が美しく桃色に色付いているのが見えて、私はどきりとして目を伏せましたが、また彼女の方を見上げると、そのほっそりと長い手脚も同じように淡く紅潮していたので、泉の水の冷たさがそうさせたのかもしれません。水を汲みに来たら私を見つけたこと、獣が立ち去った後に溺れた私を助けに入ったことなど、彼女が私に話すのを聞きながら、霧のような薄紅に染まったその白い肢体が森の薄闇に浮かび上がるのを、私は夢見るように見ていた気がします。  聞くと妙はこの泉に毎日水を汲みに来ていて、この近くに住む家があるそうです。それで私にも、自分の家で休んで行かないかと聞きました。この恐ろしい山の中、私はまさかここに人が住んでいようとは思いません。あるいは彼女は、魔物か悪霊の化身なのかもしれない。でも、ともかくも妙は私の命を助けてくれたのです。彼女と別れたからと言って帰り道を知っているわけでもなく、他に頼れる人がいるわけでもありません。食べ物も着替えもあると言います。このまま森の中にいても、また獣に襲われるかもしれない。私はただもう彼女に着いていくことにしました。  泉から彼女の家に至るまでの道は、また元のような鬱蒼とした暗い森が続きました。そして森の中では、やはり木立の揺れる音や不思議な獣の遠い雄叫びがします。時折不意にガサガサと、何か生き物がこちらに迫ってくるような音がしましたが、そのたびに妙が茂みを屹と一睨みすると、その音はぴたりと止まって静かになるのです。そんな中を、彼女は何でも無いように、平然として先を歩いていました。  私は歩いている間にどうしても気になって、ふと先を歩く彼女に、ここに住んでいて怖くないのかと、聞きました。すると彼女は振り返って大きな黒い瞳で私を見て、どうして、とさも不思議そうに聞きます。私は彼女に、村人たちがこの山について噂していることを話しました。この山には神様が棲んでいて、山に入った人間は祟りを受けてしまうこと、あるいは山に恐ろしい悪霊が充ち満ちていて、一度山に入った人間は取り憑かれてしまうこと。私が大人たちから聞いたことを話すと、妙はそうね、と口元を引き結んで笑みを浮かべ、普通なら生きて帰れないのよ、と小声で漏らしたような気がしましたが、それは私の聞き違いだったかもしれません。この山が祟られているかは分からないけれど、こんな話は聞いたことがあるわ、と彼女はそう言って、この山にまつわる逸話を語り始めました。

 妙が話すには、昔この麓の村に肌が抜けるように白い、玉のような美しい娘が住んでいたそうです。彼女には密かに思い合っていた青年がいて、彼と結婚の約束まで交わしていましたが、あるとき彼は働きに出るために島を離れることになります。必ず戻ると、そう言い残した彼の言葉だけを頼りに、彼女は来る日来る日も彼の帰りを待っていましたが、とうとう彼が戻ってくることはありませんでした。  その頃、両親はこの娘の美しさを利用しようと、彼女と村の長者を結婚させる段取りを進めていました。両家の準備はもう後戻りできないところまで来ていて、娘が反対する甲斐もなく、彼女は自分よりも何重にも年上の長者の後妻として入ることになります。いざ嫁入りすると、夫は年老いて我が儘や小言ばかり、周りからも人並みに扱われることはない。自分の愛した青年の面影を夢に見ながら、泣く泣く夫の世話を続けていると、ある日風の噂で、その彼が今では本土で立派に働いて、向こうの女性と結婚もして子供も設けていることを聞きます。  その翌日のこと、彼女は一人でこの山の麓の泉に水を汲みに来ることになっていました。この暗い森に入ると言うのに、誰も手伝ってはくれなかったのです。彼女は一人で森に入って水を汲みながら、どうしてこんなことになったのか、と考えているとぽろぽろと涙が溢れてきます。ふと前を見ると、見たことのない美しい鳥が二羽、つがいになって泉の水を飲んでいました。こんなことになるなら、煩わしい人間の世界に生きているよりか、鳥になって生きられたら良いだろうと、そう思っているうちに、気付けば彼女の姿は鳥に変わっていたのです。  だからこの山には、悩みや恨みを持った人間を引き寄せて、動物に変えてしまう力があるみたいね、私はそう聞いたわ、と前を歩く妙は話しました。私よりも前を歩いているので、表情は見えません。私はどきどきしながら、君はここに住んでいて大丈夫なの、と私が聞くと、彼女はただ、ええ、と幽かに微笑んだ気がしました。


 今度は妙の方が私に、そんなに恐ろしい山ならば、どうして一人でここに入ってきたのかと聞きます。そこで私は、自分がこの島から離れたくないこと、でも両親から反対を受けていることを彼女に打ち明けました。すると、彼女は立ち止まって真剣な眼差しをして、島にいたいなら残るべきよ、ととても共感した様子で優しく励ましてくれるのです。この山に迷い込んでから、私はすっかり元気を失っていたのですが、貴方を応援するわと、力強い妙の言葉を受けて、私は急に自信を取り戻し、やはり自分は島に残るべきなのだと、一気に気持ちは奮い立っていました。それに、と私は考えました。それに、この島に妙がいるのであれば、なおさら私はここに残るべきなのだ・・・と、密かに考えたそのときです。  私の瞳を真っ直ぐに見込んで、二人で一緒にここで暮らせば、一生島の外へ出て行く必要はないわ、と彼女が浮かべた不敵な笑みに、私はすーっと背筋の凍る思いがして、そのとき掴まれた手首をぱっと振り払っていました。彼女は不思議そうな目をして、私を見つめています。私は手に汗を握りながら、やっぱり家族が心配しているから、そろそろ村に帰らないといけないのだと伝えると、彼女はふいと向こうを向いて、もう着いたわよ、と指さしたその先に、暗い森の中に輝く大きなお屋敷がありました。屋根にも壁の釘隠しにも目映いばかりの金銀が使われていて、まるで黄金の社殿のようですが、この森の中にこんな豪華なお屋敷があるはずがないのです。この肌寒さの中で、額に汗が二筋流れました。  ここに残るべきなのよ、と目を輝かせる彼女に返す言葉が見つからないまま、私は思わず一歩、二歩と後ずさりをします。村に帰らないといけないと、辛うじて声に出すと、貴方はもう帰らなくて良いのだと、彼女は低い声で呟いて、その細い指で私の手首を締め付けるように掴みました。私を見つめるその美しい瞳は、大きく見開かれています。無理に身を捩れば捩るほど、彼女は声を振り立て、引き絞るように喚いて両手を離しません。  ですが、日頃から父と一緒に漁船にも乗り、腕も脚も鍛えている身です。私はあらん限りの力で掴まれた手首を勢いよく振り放して、元来た道へと走り出しました。振り返ると、私を追いかける彼女の形相は鬼のようでしたが、貴方を村に帰せば、どうせまた島を出てしまうのだと、そう彼女が叫んだその一瞬だけ、白い彼女の顔に花びらのような涙が目に浮かんで落ちたように見えました。私はそんな彼女の涙に一瞬揺れながら、無意識に鞄につけていたお守りを両手に抱えるようにして、やはり山道を一心に祈りながら走りました。  一体どれほど走り続けたことでしょうか。息も絶え絶えに、倒れ込みそうになったところでふと見上げると、木立が途切れて空には満月が浮かび、目の前には懐かしい村への一本道が見えました。私は張り詰めた緊張の糸が解けたように、へなへなと膝を突いて、遠い村の灯りを呆然と見つめていた。森の入り口に出たのです。ちょうどそのとき私を探していた親戚の一人が私の姿を見つけて、周りにも声を掛けたので、皆して私の元に駆け寄りました。母も父も私を抱き締めて、気付けば私は友人や親戚、私を探しに来た大勢の人たちに囲まれています。生きて戻って来られたのだと、そのとき夢から醒めたように、初めて気付きました。  皆に囲まれながら村に帰る道中に、着ていた服のポケットに何気なく手をやると、いつの間にかそこには美しい薄紅の鳥の羽が入り込んでいました。私は何故かはっとして恐る恐る後ろを振り返りましたが、そこには妙の姿はありません。今朝見たのと同じ暗い森の入り口が、ただ静かに口を開いているだけでした。


 それから村に戻ってから、その日あったことを周りに話してみるのですが、山の中に女の子が一人で住んでいるはずはないから、悪霊に遭ったのだろうと皆は結論づけて、私は村の神主から入念なお祓いを受けました。そのお陰か、その後も病を患うこともなく私は元気に過ごし、すぐに学校にも元通り通い始めることになります。妙が悪霊の化身だったと、私もそう思いますが、それではなぜ彼女が私を助けてくれたのか、やはり分からないでいました。  それであるとき、妙が私に話してくれた、不幸な村娘の話を何気なく祖母にしたところ、彼女は思いがけず苦しい切なそうな顔でじっと私を見て、それは自分の兄だと言うのです。一瞬何のことか理解できずにいましたが、よく聞いてみると、妙が話していた娘の思い人とはまさに、今は亡き自分の兄のことであると、彼女は言うのです。しかも、祖母が取り出してきた彼の若い頃の写真を見ると、私に驚くほどそっくりでした。そしてまた、行方不明になったその不幸な美しい娘が、妙、と呼ばれていたのを、祖母は朧気な記憶の中で覚えていました。  私は急いで自分の部屋に戻って、あの日自分のポケットに入っていた鳥の羽を木箱の中から取り出しました。羽先から付け根にかけて、白から薄紅に染まりゆくその色合いがあまりに美しかったので、大事にしまって取っておいたのです。私は目を瞑って、あの日泉で溺れる前、私の向かいにいた一羽の美しい朱鷺の姿を思い出していました。そしてまた妙の姿と、この朱鷺の姿とを交互に思い返してみると、自分の頭の中でその二つの姿が段々と、一つに重なっていくのが見えるような気がしました。


 結局私はその日、元の目論見通り高校の見学会には参加せずに済みましたが、それでも入学資格を失ったわけではありませんでした。私が森に入った理由を知った両親は、その日から急に優しくなって、お前の好きなようにすれば良いと、拍子抜けするほど易々と島に残ることを認めてくれたのですが、どうした訳か、あれほど島に残りたいと考えていた私が、学友たちの勉強に打ち込む姿を見ていると、何だか不意に高校に進みたいような気になっていました。自分一人島に残ることがかえって馬鹿馬鹿しく思えてきたのです。  どうして私がそんなに呆気なく心変わりしてしまったのか、訝しく思われるでしょう。ですが、若い頃の心の内は変わりやすいものです。高校受験を決めた私は、今までなぜ島に残ることにこだわっていたのか、自分でも分からなくなっていました。それから私は打って変わったように勉強に打ち込んで受験をし、無事に合格して、とうとう晴れて高校の寮に入ることになります。皆と船に乗って島を離れるという日、私はふと妙のことを思い出して、どうせ貴方は島を出てしまうのだと、彼女の怨嗟を含んだ予言が奇しくも当たったのだと思いました。  その後はそれきり、島のことや妙のことを殆ど思い出すことはありませんでした。高校に入り、大学に進み、両親の望み通り会社にも就職し、島のことを恋しく思うこともありましたが、若い私はただ目の前の毎日に夢中になって、昔のことを思い出す余裕もありません。私はただ、自分の今の暮らしに満足していました。


 そんなある朝、新聞に目を通していたとき、私は島のことが新聞記事に小さく出ているのを見つけました。島では観光開発が進み、来年開業するホテルの建設のために山の一面が削り取られ、工事が着々と進められているそうです。それに対して保護協会や研究者らは、土着の朱鷺が住処を失って年々激減していることを指摘し、警鐘を鳴らしている、とありました。そしてその隣にあったのは、一羽の朱鷺の写真です。  私ははっとして、この十年来、一度も開けずにいた木箱を押入れの奥から探し始めました。高校の教科書や部活の寄せ書き、色んなものに埋もれてはいましたが、ようやく見つけたその箱を開けてみると、あの美しい羽がきちんと収まっています。私はその羽を両手で胸に当てると、ふと山に迷い込んだ日のこと、妙のことを思い出していました。そしてまた、中学を卒業した私が島を離れたその日、島に置いてきたもののことを思い出していました。私が大好きだった島の海と自然、家族とのささやかな暮らし、そういったものを一つ一つ思い出して、今の自分とを比べてみると、苦い郷愁が大きな波のように一挙に押し寄せて、そうして羽を胸に当てたまま、気付けば涙が一筋、また一筋と、私の頬を不意に零れて流れ落ちていたのです。





 

執筆:A.K.

制作:伊達奈々実



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